アイヌは、日本とロシアにまたがる北方先住民族である。ウタリはアイヌ語で同胞、仲間を意味し名称などで使用されるが、民族呼称ではない。
平取町立二風谷アイヌ文化博物館の外の復元チセ(住宅)の写真。二風谷、北海道
呼称
アイヌとはアイヌ語で「人間」を意味する言葉で、もともとは「カムイ」(自然界の全てのものに心があるという精神に基づいて自然を指す呼称)に対する概念としての「人間」という意味であったとされている。世界の民族集団でこのような視点から「人間」をとらえ、それが後に民族名称になっていることはめずらしいことではない。例えば、「イヌイット」はカナダ・エスキモーの自称であるが、これはイヌクティトゥット語で「人」を意味する Inuk の複数形、すなわち「人々」という意味である。また、7世紀以前、日本列島に居住した民族は、中国から倭人と呼ばれたが、これは自らを「我(ワ)」と呼んだためとする説がある。他にも、タイ族やアニ・ユン・ウィヤ族、カザフ族などにも、民族名に「人」の意が含まれる。
アイヌの社会では、アイヌという言葉は本当に行いの良い人にだけ使われた。丈夫な体を持ちながらも働かず、生活に困るような人物は、アイヌと言わずにウェンペ(悪いやつ)と言う。
これが異民族に対する「自民族の呼称」として意識的に使われだしたのは、和人(シサム・シャモ)とアイヌとの交易量が増えてきた17世紀末から18世紀初めにかけてだとされている。理由はアイヌが、「蝦夷(えぞ/えみし)」と呼ばれるのを嫌い、「アイノ」と呼ぶように求めたとされている[要出典]が、呼称そのものが普遍化したのは明治以降になってからのことである。
東北地方の稲作遺跡を発掘した伊東信雄によると、朝廷の「蝦夷征伐」など、古代からの歴史に登場する「蝦夷」、あるいは「遠野物語」に登場する「山人(ヤマヒト)」らは、文化的には本土日本人であるものの、人種的にはアイヌであるという。このように、アイヌを東北地方あるいは日本全土の原日本人の一つとする説もある。これまで起源論や日本人との関連については考古学・比較解剖人類学・文化人類学・医学・言語学などからアプローチされてきたが、近年DNA解析が進み、縄文人や渡来人とのDNA上での近遠関係が明らかになってきた結果、アイヌとDNA的ににもっとも近いのは琉球人の次に本土人で、アイヌ人個体の3分の1以上に本土日本人との遺伝子交流が認められた。アイヌ人集団にはニヴフなど本土日本人以外の集団との遺伝子交流も認められ、これら複数の交流がアイヌ人集団の遺伝的特異性をもたらしたようである。
しかし明治以来、アイヌは他のモンゴロイドに比べて、彫りが深い、体毛が濃い、四肢が発達しているなどの身体的特徴を根拠として、人種論的な観点からコーカソイドに近いという説が広く行き渡っていた時期があった。20世紀のアイヌ語研究者の代表とも言える金田一京助も、この説の影響を少なからず受けてアイヌ論を展開した。アイヌ=縄文人近似説が主流になるまで、アイヌ=ヨーロッパ人近似説には日本の学会において強い影響力があった。
アイヌ民族の祖先はおおまかには続縄文文化、擦文時代を経てアイヌ文化の形成に至ったことが明らかになっている。しかし、その詳細な過程については不明な点が多く、かろうじて地名に残るアイヌ語の痕跡、文化(イタコなど)、言語の遺産(マタギ言葉、東北方言にアイヌ語由来の言葉が多い)などから、祖先または文化の母胎となった集団が東北地方にも住んでいた可能性が高いことが推定されている。特に擦文文化消滅後、文献に近世アイヌと確実に同定できる集団が出現するまでの経過は、考古学的遺物、文献記録ともに乏しい。
自然人類学から見たアイヌ民族[3]は、アイヌも本土人も、縄文人を基盤として成立した集団で、共通の祖先を持つ。アイヌだけではなく、本土の和人も琉球の人々も同じように日本列島の先住集団である縄文人と遺伝的につながっている。アイヌは、本土人に追われて本州から逃げ出した人々ではない。縄文時代以来から北海道に住んでいた人々の子孫である。母系に遺伝するミトコンドリアDNAで、3集団を比較してみると、アイヌ集団には他に見られない特殊なグループ(ハプログループY)を持つ人がいることが分かる。このタイプは、アムール川流域の少数民族の間に多く存在するもので、最近の古人骨由来のDNA研究によって、オホーツク文化人がアイヌ集団にもたらしたものである可能性が高くなっている。
従来アイヌは、南方系の縄文人、北方系の弥生人という埴原和郎の「二重構造説」の図式のもとに、在来系の縄文人の末裔であるとみなされてきたが、オホーツク人のなかに、縄文系には無いがアイヌが持つ遺伝子のタイプを確認し、北大の天野哲也教授(考古学)は「アイヌは縄文人の単純な子孫ではなく、複雑な過程を経て誕生したことが明らかになった」と、分析結果を評価した。
近年の遺伝子調査では、遺伝子的にアイヌに近いのは琉球人の次に本土人であり、他の30人類集団のデータとあわせて比較しても、 日本列島人(アイヌ人、琉球人、本土人)の特異性が示された。これは、現在の東アジア大陸部の主要な集団とは異なる遺伝的構成、 おそらく縄文人の系統を日本列島人が濃淡はあるものの受け継いできたことを示している。
次に、弥生時代における渡来の遺伝プールの評価とは別に、縄文時代の列島住民の遺伝的均質性にも近年では疑問が提出され、のちにアイヌ民族を形成する北海道および東北の縄文時代住民と、同時代の関東地方の縄文時代住民との間にすでに大きな遺伝的差異が見られることが明らかとなった。
擦文時代以降の民族形成については、オホーツク文化人(ツングース系ともニヴフとも推定されている。)の熊送りなどに代表される北方文化の影響と、渡島半島南部への和人の定着に伴う交易等の文物の影響が考えられている。
オホーツク人DNAがアイヌ民族と共通性があるとの研究結果も出ている。アイヌ民族は、縄文人や現代の和人にはほとんどないハプログループY遺伝子を、20%の比率で持っていることが過去の調査で判明している。どのようにこの遺伝子がもたらされたのかが疑問だったが、アイヌ民族とオホーツク人との遺伝的共通性が判明したことで、増田准教授は「オホーツク人と、同時代の続縄文人ないし擦文人が通婚関係にあり、オホーツク人の遺伝子がそこからアイヌ民族に受け継がれたのでは」と推測している。
また、Y染色体ハプログループの構成比については、日本人(特に沖縄県)に多く東南アジアから北上したと思われるD2のうちD2*が13/16=81.25%、D2a1が1/6=6.25%に対し、北方シベリアから樺太を経て南下してきたと考えられるC3が2/16=12.5%と報告されている
和人との混血
明治以降は和人との通婚が増え、アイヌの血を100%引いている人は減少している。和人との通婚が増えている理由として、西浦宏巳が1980年代前半に二風谷のアイヌの青年に行った聞き取り調査では、和人によるアイヌ差別があまりにも激しいため、和人と結婚することによって子孫の「アイヌの血を薄め」ようと考えるアイヌが非常に多いことが指摘されている。
しかしながらアイヌと和人の両方の血を引く人々の中にも、著名なエカシ(長老)の一人である浦川治造のように、アイヌ文化の保存と発展に尽力する者は少なくない。また、浦河町のエカシである細川一人は、和人の両親から生まれた人物であるが、幼少時に父親と死別し、その後14歳の時に母親がアイヌの男性と再婚したためにアイヌ文化を身につけたという珍しい存在である。
平取町立二風谷アイヌ文化博物館の外の復元チセ(住宅)の写真。二風谷、北海道
呼称
アイヌとはアイヌ語で「人間」を意味する言葉で、もともとは「カムイ」(自然界の全てのものに心があるという精神に基づいて自然を指す呼称)に対する概念としての「人間」という意味であったとされている。世界の民族集団でこのような視点から「人間」をとらえ、それが後に民族名称になっていることはめずらしいことではない。例えば、「イヌイット」はカナダ・エスキモーの自称であるが、これはイヌクティトゥット語で「人」を意味する Inuk の複数形、すなわち「人々」という意味である。また、7世紀以前、日本列島に居住した民族は、中国から倭人と呼ばれたが、これは自らを「我(ワ)」と呼んだためとする説がある。他にも、タイ族やアニ・ユン・ウィヤ族、カザフ族などにも、民族名に「人」の意が含まれる。
アイヌの社会では、アイヌという言葉は本当に行いの良い人にだけ使われた。丈夫な体を持ちながらも働かず、生活に困るような人物は、アイヌと言わずにウェンペ(悪いやつ)と言う。
これが異民族に対する「自民族の呼称」として意識的に使われだしたのは、和人(シサム・シャモ)とアイヌとの交易量が増えてきた17世紀末から18世紀初めにかけてだとされている。理由はアイヌが、「蝦夷(えぞ/えみし)」と呼ばれるのを嫌い、「アイノ」と呼ぶように求めたとされている[要出典]が、呼称そのものが普遍化したのは明治以降になってからのことである。
東北地方の稲作遺跡を発掘した伊東信雄によると、朝廷の「蝦夷征伐」など、古代からの歴史に登場する「蝦夷」、あるいは「遠野物語」に登場する「山人(ヤマヒト)」らは、文化的には本土日本人であるものの、人種的にはアイヌであるという。このように、アイヌを東北地方あるいは日本全土の原日本人の一つとする説もある。これまで起源論や日本人との関連については考古学・比較解剖人類学・文化人類学・医学・言語学などからアプローチされてきたが、近年DNA解析が進み、縄文人や渡来人とのDNA上での近遠関係が明らかになってきた結果、アイヌとDNA的ににもっとも近いのは琉球人の次に本土人で、アイヌ人個体の3分の1以上に本土日本人との遺伝子交流が認められた。アイヌ人集団にはニヴフなど本土日本人以外の集団との遺伝子交流も認められ、これら複数の交流がアイヌ人集団の遺伝的特異性をもたらしたようである。
しかし明治以来、アイヌは他のモンゴロイドに比べて、彫りが深い、体毛が濃い、四肢が発達しているなどの身体的特徴を根拠として、人種論的な観点からコーカソイドに近いという説が広く行き渡っていた時期があった。20世紀のアイヌ語研究者の代表とも言える金田一京助も、この説の影響を少なからず受けてアイヌ論を展開した。アイヌ=縄文人近似説が主流になるまで、アイヌ=ヨーロッパ人近似説には日本の学会において強い影響力があった。
アイヌ民族の祖先はおおまかには続縄文文化、擦文時代を経てアイヌ文化の形成に至ったことが明らかになっている。しかし、その詳細な過程については不明な点が多く、かろうじて地名に残るアイヌ語の痕跡、文化(イタコなど)、言語の遺産(マタギ言葉、東北方言にアイヌ語由来の言葉が多い)などから、祖先または文化の母胎となった集団が東北地方にも住んでいた可能性が高いことが推定されている。特に擦文文化消滅後、文献に近世アイヌと確実に同定できる集団が出現するまでの経過は、考古学的遺物、文献記録ともに乏しい。
自然人類学から見たアイヌ民族[3]は、アイヌも本土人も、縄文人を基盤として成立した集団で、共通の祖先を持つ。アイヌだけではなく、本土の和人も琉球の人々も同じように日本列島の先住集団である縄文人と遺伝的につながっている。アイヌは、本土人に追われて本州から逃げ出した人々ではない。縄文時代以来から北海道に住んでいた人々の子孫である。母系に遺伝するミトコンドリアDNAで、3集団を比較してみると、アイヌ集団には他に見られない特殊なグループ(ハプログループY)を持つ人がいることが分かる。このタイプは、アムール川流域の少数民族の間に多く存在するもので、最近の古人骨由来のDNA研究によって、オホーツク文化人がアイヌ集団にもたらしたものである可能性が高くなっている。
従来アイヌは、南方系の縄文人、北方系の弥生人という埴原和郎の「二重構造説」の図式のもとに、在来系の縄文人の末裔であるとみなされてきたが、オホーツク人のなかに、縄文系には無いがアイヌが持つ遺伝子のタイプを確認し、北大の天野哲也教授(考古学)は「アイヌは縄文人の単純な子孫ではなく、複雑な過程を経て誕生したことが明らかになった」と、分析結果を評価した。
近年の遺伝子調査では、遺伝子的にアイヌに近いのは琉球人の次に本土人であり、他の30人類集団のデータとあわせて比較しても、 日本列島人(アイヌ人、琉球人、本土人)の特異性が示された。これは、現在の東アジア大陸部の主要な集団とは異なる遺伝的構成、 おそらく縄文人の系統を日本列島人が濃淡はあるものの受け継いできたことを示している。
次に、弥生時代における渡来の遺伝プールの評価とは別に、縄文時代の列島住民の遺伝的均質性にも近年では疑問が提出され、のちにアイヌ民族を形成する北海道および東北の縄文時代住民と、同時代の関東地方の縄文時代住民との間にすでに大きな遺伝的差異が見られることが明らかとなった。
擦文時代以降の民族形成については、オホーツク文化人(ツングース系ともニヴフとも推定されている。)の熊送りなどに代表される北方文化の影響と、渡島半島南部への和人の定着に伴う交易等の文物の影響が考えられている。
オホーツク人DNAがアイヌ民族と共通性があるとの研究結果も出ている。アイヌ民族は、縄文人や現代の和人にはほとんどないハプログループY遺伝子を、20%の比率で持っていることが過去の調査で判明している。どのようにこの遺伝子がもたらされたのかが疑問だったが、アイヌ民族とオホーツク人との遺伝的共通性が判明したことで、増田准教授は「オホーツク人と、同時代の続縄文人ないし擦文人が通婚関係にあり、オホーツク人の遺伝子がそこからアイヌ民族に受け継がれたのでは」と推測している。
また、Y染色体ハプログループの構成比については、日本人(特に沖縄県)に多く東南アジアから北上したと思われるD2のうちD2*が13/16=81.25%、D2a1が1/6=6.25%に対し、北方シベリアから樺太を経て南下してきたと考えられるC3が2/16=12.5%と報告されている
和人との混血
明治以降は和人との通婚が増え、アイヌの血を100%引いている人は減少している。和人との通婚が増えている理由として、西浦宏巳が1980年代前半に二風谷のアイヌの青年に行った聞き取り調査では、和人によるアイヌ差別があまりにも激しいため、和人と結婚することによって子孫の「アイヌの血を薄め」ようと考えるアイヌが非常に多いことが指摘されている。
しかしながらアイヌと和人の両方の血を引く人々の中にも、著名なエカシ(長老)の一人である浦川治造のように、アイヌ文化の保存と発展に尽力する者は少なくない。また、浦河町のエカシである細川一人は、和人の両親から生まれた人物であるが、幼少時に父親と死別し、その後14歳の時に母親がアイヌの男性と再婚したためにアイヌ文化を身につけたという珍しい存在である。
北海道においては、アイヌ居留地などは存在しないが、平取町二風谷に多数が居住するほか、白老や阿寒湖温泉では観光名所としてコタンが存在する。2006年の調査によると、北海道内に23,782人[14]となっており、支庁別にみた場合、胆振・日高支庁に多い。しかしながら、調査に応じた人口のみのため、実際には調査結果よりもはるかに多くのアイヌ人口が見積られる。1971年当時で道内に77,000人という調査結果もある。北海道外に在住するアイヌも多いが、ほとんど実態調査は行われておらず、1988年の調査において東京在住のアイヌ推計人口が2,700人と見積もられているものが唯一かつ最も新しい公式の調査である
1989年の東京在住ウタリ実態調査報告書では、東京周辺だけでも北海道在住アイヌの1割を超えると推測されており、現在[いつ?]首都圏在住のアイヌは1万人を超えるとされる。日本全国に住むアイヌは総計20万人に上るという調査もある[15]。また、日本・ロシア国内以外にも、ポーランドには千島アイヌの末裔がいるとされる。一方、アイヌ研究の第一人者であったポーランドの人類学者ブロニスワフ・ピウスツキがアイヌ女性チュフサンマと結婚して生まれた子供たちの末裔はみな日本にいる。
長い間、アイヌであることを肯定的に捉える人は少なく、和人への同化とともに出自を隠す傾向が強かった。しかし、近年はAINU REBELSのような若者を中心として積極的にアイヌ語とアイヌ文化の保持を主張し、自らがアイヌであることを肯定的にとらえる傾向も、徐々にみられるようになってきた。各地でアイヌ民族フェスティバルなどが開かれ、北海道以外に住むアイヌ民族の活動も盛んになってきており、世界中の先住民族との交流も行われている。
2007年9月13日に国連総会で採択された先住民族の権利に関する国際連合宣言を踏まえて、2008年6月6日、アイヌを先住民族として認めるよう政府に促す国会決議が衆参両院とも全会一致で可決された。
1989年の東京在住ウタリ実態調査報告書では、東京周辺だけでも北海道在住アイヌの1割を超えると推測されており、現在[いつ?]首都圏在住のアイヌは1万人を超えるとされる。日本全国に住むアイヌは総計20万人に上るという調査もある[15]。また、日本・ロシア国内以外にも、ポーランドには千島アイヌの末裔がいるとされる。一方、アイヌ研究の第一人者であったポーランドの人類学者ブロニスワフ・ピウスツキがアイヌ女性チュフサンマと結婚して生まれた子供たちの末裔はみな日本にいる。
長い間、アイヌであることを肯定的に捉える人は少なく、和人への同化とともに出自を隠す傾向が強かった。しかし、近年はAINU REBELSのような若者を中心として積極的にアイヌ語とアイヌ文化の保持を主張し、自らがアイヌであることを肯定的にとらえる傾向も、徐々にみられるようになってきた。各地でアイヌ民族フェスティバルなどが開かれ、北海道以外に住むアイヌ民族の活動も盛んになってきており、世界中の先住民族との交流も行われている。
2007年9月13日に国連総会で採択された先住民族の権利に関する国際連合宣言を踏まえて、2008年6月6日、アイヌを先住民族として認めるよう政府に促す国会決議が衆参両院とも全会一致で可決された。